音のタイル張り舗道。

クラシックという銀河を漂う... 

年の瀬に聴く『展覧会の絵』、アリス・沙良・オット、大器!

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何となしに、いつもの年より、いろいろ思うことが多いような今年の年の瀬... それだけ、いろいろなことがあった2019年ということなのだろう。そんな2019年を振り返って、頭に浮かぶのは、「分断」の二文字。世界で、日本で、あらゆる場所で、「分断」が強調される一年だったなと... ニュースには、日々、分断された向こう側を罵る人々が登場し、そんな場面を繰り返し流されれば、不安ばかりが募る一年でもあったなと... また、そうした不安をエネルギーに、「分断」は、ますます勢い付いて... しかし、少し冷静になって、少し距離を取って、分断のあちら側とそちら側を見つめてみると、何だか滑稽にも思えて来る一年でもあった。分断の右側を見れば、何だか呑んだくれのオヤジのように見えるし、左側を見れば、過保護のママみたいだし... ママが過保護だから、オヤジはますます呑んだくれて、オヤジが呑んだくれて、ワケがわからなくなるから、ママはヒステリーを起こし... 見事な悪循環!一方で、そこには、ある種のコミュニケーションが成立していたようにも思う。てか、20世紀の昭和の典型的なバッドな家庭の風景のよう?で、21世紀のリアルに生きる、オヤジとママのこどもたち、私たちは、そんな両親が、はっきり言って、うざい... 呑まずに現実を見ろ!ヒステリー起こす前に現実に対処しろ!サイレント・マジョリティーたるこどもたちの本音は、そういうものではないだろうか?今、本当にある「分断」は、親子間のもの。つまり、20世紀的な志向と、21世紀に生まれつつある指向の対立。かなと... 過渡期なればこその対立なのだよね、これも歴史に回収されれば、興味深い。となるのだろうけれど、まだ先だァ。は、さて置き、音楽。
前回、ダ・ヴィンチの名作を音楽で構成する大胆な企画を聴いたので、本家、『展覧会の絵』、どうかなと... いや、年末感ない?この組曲... ということで、アリス・沙良・オットが弾く、ムソルグスキーの『展覧会の絵』と、シューベルトの17番のピアノ・ソナタによるライヴ盤(Deutsche Grammophon/4790088)。を、聴きながら、2019年を振り返る年の瀬。みたいな...

ムソルグスキー(1839-81)が、急逝した友人、建築家でデザイナーだったハルトマン(1842-73)の回顧展を訪れ、その印象を組曲にしたのが、ここで聴く、『展覧会の絵』。お馴染みのテーマ、プロムナードを挿みながら、ハルトマンの様々な作品を丁寧に音楽でなぞり、多彩な楽曲で綴られる組曲は、どこか、ハルトマンの人生そのものを辿るような印象も受ける。怪しげなもの、ノスタルジックなもの、ちょっと気取ったもの、重々しいもの、かわいらしいもの、儚げなもの、楽しげなもの、悲痛なもの、恐ろしげなもの、そうして迎える、輝かしい瞬間!ひとつひとつの楽曲は、ハルトマンの手による絵画やスケッチ、パースに基づくのだけれど、ムソルグスキーがハルトマンの描いた画面を音楽にすると、より普遍的な人生の様々な場面を描き出すようでもあり、ハルトマンの作品以上にイマジネーションを刺激される。一方で、ムソルグスキーは、第8曲に「カタコンブ(地下墓地)」(track.13)を置いて、それに続くプロムナードに、「死せる言葉による死者への呼びかけ」(track.14)とタイトルを付け、穏やかに変奏し、逝ってしまった友人を悼む... そのあたりを意識して、最後、「キエフの大門」(track.16)の壮麗さに触れると、どこかヘヴンリーで、これは、ある種のイン・パラディスム(レクイエムの最後で歌われることのある「楽園にて」... )なのかもしれない。と、思えて来る... いや、ハルトマンによるパース、『キエフの大門』の、素っ気ないほどに淡々とした表情を目にすれば、ムソルグスキーはまったく別の風景を描き出していたことに気付かされる。ムソルグスキーの「キエフの大門」は、"大門"というより"大聖堂"のようで... 人生を回顧して、最後、友人の魂を大聖堂導き、まるで、昇天させようとしているかのよう。つまり、『展覧会の絵』は、レクイエムなのかもしれない。そんな風に考えると、その音楽の重みが、グンと増すように感じられる。そんな音楽を、年の瀬に聴く... いろいろあった今年を送るために... 凄くしっくり来る気がする。プロムナードの、威厳に満ちた雰囲気も、どこか第九に通じる高みが感じられるし... そういう高みから振り返る、組曲を織り成す悲喜交々に、何と言えない感慨を覚える。
という『展覧会の絵』を、アリス・沙良のピアノで、ライヴ盤(2012年、サンクト・ペテルブルクの白夜の星音楽祭にて... )で聴くのだけれど、何か、凄い。斜め上を行く凄さ... いや、実に、実にしっかりとした演奏。ゴツイくらいにしっかりとしている。指がよく回ります!とっても上手でしょ!というのではない、時に不器用にすら感じられるタッチ(ライヴ盤なればこそ?)も含んで... なればこそ、スコアの上を上滑りして行くようなところは一切無く、発せられる音に、質量が生まれるような、独特な感覚を生み出す。まるで、"展覧会の彫刻"... 一曲一曲の存在感が凄い... そして、その存在感から漂い出す濃い味わい... その若さから、容姿から、ドイツと日本のハーフというあたりから、何かと注目されて来たアリス・沙良だけれど、注目されてメディアに露出する彼女のパーソナリティは、いつも率直で、時にどこかやさぐれたようなところすらあって、痛快。何より、そうした性格が、音楽からも感じ取れて、現代っ子... いや、何かもう一歩踏み込んで、一筋縄には行かない表情も見せるのか... 期待されるようなクラシックのお人形にはならない気骨を見せる彼女のピアノには、お人形にならないことへの足掻きも感じられるのかもしれない。また、それこそが原動力となって、時に武骨にさえ思える音楽を繰り出して、聴く者の心を揺さぶって来る。『展覧会の絵』は、まさにそうした演奏... 洗練された展覧会を開こうと思えば、いくらでもできるだろう。が、そうはしない。ムソルグスキーが一曲一曲に籠めただろう、ムソグルスキーらしい苦悩を、今、改めてピアノで穿ち、精神のオブジェクトとして、展覧会の一曲一曲を、我々の前に提示する。そうしたところからの、最後、「キエフの大門」(track.16)は、まるで大聖堂の大空間を見上げるような解放感を味わい、安寧も広がって、全てが浄化されるかのよう。こういう場をきちんと設けるアリス・沙良、ただ武骨なんじゃない、ピアニストとして、すでに大器。オーケストラ版では掴めない、オリジナルならではの、本物感をガッツリ響かせて魅了して来る。
さて、『展覧会の絵』の後に演奏されるのが、シューベルトの17番のピアノ・ソナタ(track.17-20)。大作の後にまた大作をブチ込んで来るアリス・沙良の気概!半端無い... でもって、ムソルグスキーの後で聴く、シューベルトの、ドイツのソナタの、何たる充実... 組曲には望めない、ソナタなればこその構築性に圧倒される。一方で、モーツァルトの延長線上にある、ウィーン古典派の最後としてのシューベルトのピアノのサウンドの軽やかさ、あるいは、晩年のシューベルトの、ちょっと浮世離れした雰囲気もあって、作品がふわっとしたイメージに包まれ... そうしたあたりから『展覧会の絵』を振り返れば、ムソルグスキーの音楽の重みが際立ち、また、組曲の中にも確かな構築性をがあったことに気付かされる。この2作品を並べることで、そのコントラストのおもしろさを楽しみつつ、どこかで組曲ソナタがアベコベになるような感覚も籠められていて、刺激的。何より、アリス・沙良がそれを楽しんでいるようで、ムソルグスキー同様、しっかりと音符を捉えながらも、伸びやかに、宙を舞うように展開されるシューベルトも、魅了されずにいられない。そうして響き出す音楽は、どこか、「キエフの大門」の先にある天国の様子を見せてくれるようでもあって、明るい光の中、とても心地良い時間が流れて行く。またそれが、28歳にして晩年というシューベルト特有の、すでに魂が肉体から離れてしまっているような儚さを絶妙に捉えていて、惹き込まれる。いや、シューベルトもすばらしいアリス・沙良。今年は、彼女の病に関する、ショッキングなニュースも伝えられたわけだけれど、それも含めて、表現者、アリス・沙良なのかもしれない。このムソルグスキーシューベルトを聴いていると、そんな風に思えて来る。そう、大器。なのだと思う。
ALICE SARA OTT PICTURES

ムソルグスキー : 組曲展覧会の絵
シューベルト : ピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調 D.580

アリス・沙良・オット(ピアノ)

Deutsche Grammophon/4790088



病なんかに負けんな!貫け!