音のタイル張り舗道。

クラシックという銀河を漂う... 

シューベルト、遠くへの渇望。

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これもまた、旅なのかもしれない。冬の旅、ではなくて、シューベルトアイスランドへの、あるいは、フォークロアへの旅... アイスランド出身のテノール、クリスチャンソンが、シューベルトの歌曲とアイスランドの民謡を並べるという、大胆な1枚を聴いてみようと思うのだけれど、元来、並ばない音楽が並んで生まれるケミストリーは、実に刺激的で、様々な想像を掻き立てる。シューベルトは、南への憧れを、その音楽に、様々に籠めている。君よ知るや南の国... ミニョンの歌(ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』から採られた詩、故郷、南の国から離れたミニョンが、その故郷の美しい情景を想って歌う... )は、まさに象徴的。で、ミニョンにシューベルトの姿が重なる?アルプスを越える経済力も行動力も無かったシューベルトだったけれど、知らない南の国を夢想しながら書いた音楽、例えばイタリア風序曲だとかを聴いていると、何だか切なくなってしまう。音楽の中で旅したシューベルト... そのシューベルトが、南ではなく北へと旅したら、どうだったろう?と、夢想しながら...
ベネディクト・クリスチャンソンのテノール、アレクサンダー・シュマルツのピアノで、遠くへの憧れを歌う、アイスランド民謡、そして、シューベルトの歌曲を、大胆にひとつにまとめたアルバム、"Drang in die Ferne"(GENUIN/GEN 19645)を聴く。

谷は美しくとも... 冬になれば、動物も人も死んでしまう。北欧のフィヨルド(=美しい谷)のリアルを、諦念を滲ませながら、訥々とア・カペラで歌い、始まる、"Drang in die Ferne(遠くへの渇望)"。まず、アイスランド民謡の、まったく飾ることのない、シンプルを通り越して、もはや寒々としてすらいるその表情に驚かされる。アイスランド、まさに"氷の地"そのものと言えそうな温度感に驚かされる。けれど、そういう温度感だからこそ生まれる、まったく以って澄み切った歌いに、吸い込まれそう... 何なんだ?この感覚!民謡というと、どこか懐かしさがあって、そこに温もりのようなものを感じる(もちろん、一概には言えない... )のだけれど、クリスチャンソンが歌うアイスランド民謡は、そういう、民謡に抱く、漠然としたイメージを断ち切って、まるで北極圏を目の前にした大気の峻厳さそのものを響かせるようで、音楽を越えてしまったような印象すらある。いや、1曲目、「谷は美しくとも」から、思い掛けなく震撼させられる"Drang in die Ferne"。そのアンサー・ソングのように歌い出される、シューベルトの「遠くへの渇望」(track.2)... 厳しい故郷のリアル(谷は美しくとも... )から、外の世界への憧れを歌う展開は、絶妙。絶妙なのだけれど、アイスランド民謡に震撼させられた後だと、その甘やかさにクラクラしてしまう。ア・カペラの、剥き出しの響きの後で、ポロポロとこぼれ出すピアノの伴奏... その響きに、嗚呼、音楽だ、と、得も言えぬ安堵感が広がる。そうして歌い出される内容は、田舎の実家暮らしから脱出したい若者の嘆き節。それがまた、ブンチャッチャッと解り易くワルツのリズムに乗っかって、耳を疑うほどにチャラい!アイスランド民謡の後だから、余計にチャラい!チャラいのだけれど、アイスランド民謡の後だからこそ、その音楽としての圧倒的な情報量に驚かされる。壮麗なシンフォニーや、華麗なコンチェルトからしたら、歌曲=リートの世界は、とてもささやかな印象を受けるのだけれど、今一度、丁寧にシューベルトの歌曲と向き合ってみれば、その豊かな音楽性に圧倒される。てか、"歌曲王"、伊達じゃないんだなと、感服です。そう、2曲目にして、今度は感服させられる。
アイスランド民謡を歌うと、シューベルトの歌曲が数曲続き、再びアイスランド民謡が挿まれて、独特な展開を見せる、クリスチャンソンによる"Drang in die Ferne"。いや、間違いなく突飛な組み合わせなのだけれど、その突飛さから新しい視座を示すクリスチャンソン。同じく、遠くへの渇望を歌いながら、一方では寒々しいモノトーンの風景が広がり、もう一方はキラキラと輝いて、色彩に溢れるという... 諦念(アイスランド)と希望(シューベルト)が表裏となって綴られるおもしろさ!また、それぞれに、それぞれの余韻が残り、どこかポリフォニックな印象も生まれるのか?さらには、両者が交錯するような仕掛けもあり... ちょうど折り返しあたり、アイスランド民謡、「ねんねん坊や」(track.12)に続けて(印象的なハミングから、まるで葬送の音楽のようにピアノが前奏し... )、アイスランドを代表する作曲家、レイフス(1899-1968)の「子守唄」(track.13)が歌われるのだけれど、アイスランド民謡に根差したアイスランドの歌曲の登場が、フォークロアとリートの境界を曖昧とし、続く、シューベルトの「泉のほとりの若者」(track.14)から聴こえて来る平易なメロディーは、まるで民謡... かと思うと、次に歌われるアイスランド民謡、「キスしておくれ、優しい娘よ」(track.15)のロマンティックなメロディーは、シューベルトを思わせて、さらにその後に歌われるシューベルトの「邪悪な色」(track.16)のインターリュードのよう... この思い掛けないアイスランドとドイツ・ロマン主義、民謡と歌曲の邂逅。すると、シューベルトの歌曲には、民謡に通じる気安さ、気の置け無さがこぼれ出し、そうあることで、ドイツ・ロマン主義のローカル性も浮かび上がり、またアイスランド民謡には、ロマン主義の源流を見出せるようで... 両者は、それこそ遠くにありながら、ひとつの流れの中にあるような、不思議な感覚を覚える。それは、音楽史とはまた違う、歌うことそのものの系譜?"Drang in die Ferne"の、遠くへの渇望とは、ただ遠いところを望むのではない、今、我々が当り前のように耳にしている、完成されてしまった音楽=歌が失ってしまった、より根源的な姿を求める、ある種の旅のように思えて来る。
そんな、旅... 遠くへの渇望を聴かせてくれるクリスチャンソン。まず、圧倒されるのは、歌うことに素直であること... 何も飾ることなく、ありのまま、自らの声を大気に放つ、突き抜けた純真性に驚かされる。なればこそ、対極にある音楽も、難なく歌い分けられて... アイスランド民謡では、アイスランドの冷え冷えとした表情を淡々と捉え、フォークロアならではの作為の無い朴訥さ、多くを語らない=歌わない、その厳しい姿に、民謡のイメージを越える独特な緊張感を漂わせる。いや、ちょっと、この世の者とは思えない存在感すら感じられて、聴く者を拒絶するかのような、あまりに澄み切った歌声は、音楽というより、極北の大気そのもの。一転、シューベルトの歌曲では、その明るいテノールを存分に活かし、まるで少年のような無邪気さを振り撒き、活き活きと歌う。で、この歌い分けが、"Drang in die Ferne"にイリュージョンを創り出す。対極を極めれば極めるほど、より根源的なもの、ジャンルや様式に囚われない、深く底流する音楽の奔流が浮かび上がって来るようで、ちょっと他では得難い体験をもたらしてくれる。てか、何なん、これ?!聴けば聴くほど、歌うことの深淵を見せ付けられるようで、恐い。アイスランドシューベルトの間を彷徨いながら、一見、脈略が無いようで... いや、脈略の無いからこそ、歌そのものしか残らない。そうして残された歌の、何たるピュア!

Drang in die Ferne Schubert-Lieder und Volkslieder aus Island
Benedikt Kristjánsson


アイスランド民謡 : 谷は美しくとも
シューベルト : 遠くへの渇望 D.770 *
シューベルト : 月に寄せるさすらい人の歌 D.870 *
シューベルト : 舟人 D.536 *
アイスランド民謡 : 私の舌よ
シューベルト : それらがここにあったことを D.775 *
シューベルト : 好奇心の強い男 D.795-6 *
シューベルト : 耽り D.715 *
アイスランド民謡 : 私たちは牧草地に立っていた
シューベルト : 君は私の憩い D.776 *
シューベルト : かじかみ D.911-4 *
アイスランド民謡 : 優しく眠れ
レイフス : 子守歌 *
シューベルト : 泉のほとりの若者 D.300 *
アイスランド民謡 : キスしておくれ、優しい娘よ
シューベルト : いやな色 D.795-17 *
シューベルト : 歓迎と告別 D.767 *
アイスランド民謡 : 宵の明星が明るく輝いても
シューベルト : 漁夫の愛の幸福 D.933 *
アイスランド民謡 : アイスランド、祝福の地よ *
シューベルト : 流れの上で D.943 **

ベネディクト・クリスチャンソン(テノール)
アレクサンダー・シュマルチ(ピアノ) *
ティルマン・ヘフス(ホルン) *

GENUIN/GEN 19645