音のタイル張り舗道。

クラシックという銀河を漂う... 

バンキエーリ、マドリガル・コメディ。

OPS30137.jpg
さて、本日、謝肉祭=カーニヴァルの最終日(よって、明日から四旬節... )。本来ならば、お祭り騒ぎのはずが、ヴェネツィアカーニヴァルは、すでに打ち切りになったとのこと、東アジアのみならず、ヨーロッパでも切迫した状況となって参りました。一方、こうした事態を前に、批判先行、どうもにも建設的な論議が始まらないことがもどかしい!今こそ、しっかりと連携して、対処する時だよね?いや、それらを待っているばかりでは埒が明かないので、とにもかくにも、手洗い、マスク、人が密集する場所は避ける。で、テレワーク、時差出勤、できることはどんどんやろう!結果、我々の社会は、よりスマートなものに脱却できるんじゃない?そう、ピンチをチャンスに!ウィルスにやられっぱなしじゃつまらない。そして、カーニヴァルは家の中で!楽しい音楽を聴いて、免疫力を上げるよ!ということで、カーニヴァルのドタバタを歌う、バンキエーリのマドリガル・コメディ!
リナルド・アレッサンドリーニ率いるコンチェルト・イタリアーノの歌で、バンキエーリの『肥沃な木曜日の晩餐前夕べの小宴』と、ストリッジョの『狩』、『洗濯女の井戸端会議』(Opus111/OPS 30137)も一緒に... 大いに笑って、ウィルスに対抗したる!

さて、マドリガル・コメディとは?というところからスタートしたいのだけれど、これが、なかなか興味深い。ルネサンス期、次なる時代が模索され始めようとしていた16世紀後半、マドリガーレをつないで、ひとつのシーンを描き出す、連作マドリガーレのような作品が登場。ここで聴く、1567年に出版された、ストリッジョ(1540-92)の『洗濯女たちの井戸端会議』(track.27-31)は、その先駆的な作品。で、こうした連作マドリガーレから一歩を踏み出し、ポリフォニックなマドリガーレと、ホモフォニックなヴィラネッラなどを織り交ぜて、台詞でつなぎ、歌芝居に仕立て上げたのが、コンメディア・アルモニカ。その画期となった作品が、1597年(奇しくも、フィレンツェで最初のオペラが誕生した年!)に出版された、ヴェッキ(1550-1605)の『ランフィ・パルナーゾ』。"コンメディア・アルモニカ"という語を用いた最初の作品で、コンメディア・デッラルテ(16世紀半ば、イタリアで誕生した伝統の風刺喜劇。アルレッキーノプルチネッラといった定番キャラたちが即興的にドタバタ劇を繰り出す... )の枠組みを用い、オペレッタの先祖のような形が示される。というコンメディア・アルモニカは、あくまでもマドリガーレが基点となっており、基本、ア・カペラ、さらりと歌われるのが特徴的。なので、オペラのように、慇懃に劇場で上演されるという感覚は薄い... 文化人たちが集うアカデミーの余興など、インスタントに歌われたりするのが常だったようで、ギリシア悲劇の復興=オペラからすれば、随分と砕けた印象(外国語とか、動物の鳴き声のモノマネで笑いを取るのが定番... )がある。で、その砕けっぷりが、庶民にも受け容れ易く、ヴェネツィアでは大いに人気を博す(世界初の公開のオペラハウス、サン・カッシアーノ劇場は、元々、コンメディア・アルモニカを上演する劇場だった... )。という、コンメディア・アルモニカと、その前段階の連作マドリガーレを、少々強引だが、ひとまとめにした言葉が、マドリガル・コメディ(ちなみに、この言葉は、20世紀になってから用いられたもの... )。いや、オペラが誕生し、バロックへと突き進む時代に、こんな風に最後っ屁を残したルネサンスが、実に興味深いじゃないですか!
という、マドリガル・コメディ... 最初に聴くのは、前述のストリッジョの『洗濯女たちの井戸端会議』とセットで出版されていた、5つのパートからなる『狩』(track.1-5)。タイトルの通り、狩の様子を歌うその音楽は、始まりの前口上こそ古雅なマドリガーレとして歌い出されるものの、次第にスピードを上げ、獲物を追い、森の中を馬やら勢子やら猟犬やらが疾駆して行くような音楽が繰り広げられて、惹き込まれる!で、実際に狩が始まる2つ目のパートでは、ますますスピードを上げ、合図のラッパが響けば、動物たちの鳴き声が聴こえて来て、臨場感が凄い... いや、声のみで、こうも臨場感を引き出して来るとは... ルネサンスの音楽というと、典雅なイメージが先行するのだけれど、この『狩』の息衝く感覚は、次なる時代がすでに表れるようで、刺激的。ポリフォニーを巧みに用い、同時進行して行く狩の様子を子細に追いながら、焦点が絞られるとホモフォニックに歌い、狩の劇的な展開もしっかりと描き出す。このあたりは、バロックが深まった頃の音楽すら思わせて、ちょっと驚かさられる。一方、最後に取り上げられる『洗濯女たちの井戸端会議』(track.27-31)は、よりマドリガーレらしさが感じられ... いや、ルネサンスならではのポリフォニーを活かし、そこに洗濯女たちの会話を小気味良く乗せて、そうそう、井戸端会議って、ポリフォニックに展開されるものだったわ。なんて、かえってリアリティが感じられたり... で、そのリアリティを引き出すのが、言葉に活き活きとした表情を与える、活気溢れるリズム!ポリフォニーではるものの、イタリア語のリズミカルさをそのままに繰り出される音楽、言葉を活かす在り方には、またバロックを予感させるところも... しかし、それら全てが、ア・カペラ、声のみによって表現されるから、驚かされる。ルネサンス、恐るべし...
そんなストリッジョの作品を前後に取り上げられるのが、バンキエーリ(1568-1634)のコンメディア・アルモニカ、『肥沃な木曜日の晩餐前夕べの小宴』(track.6-26)。ストリッジョの2作品からは40年を経て、すでにバロックが始動していた1608年に出版されたコンメディア・アルミニカには、はっきりと新しい時代の音楽が響き出す。まず、情景を描き出すのに留まっていたストリッジョとは違い、歌手たちは、芝居(たって、カーニヴァルを前に、みんな浮かれて大騒ぎ!動物たちだって大騒ぎ!くらいのもので... )を繰り出して来る。で、その芝居を織り成すナンバーもまた、ポリフォニーに留まるばかりでなく、モノディーを用いることも厭わず、リュートを伴奏にカンツォネッタ(track.15)なんかも歌っちゃう!で、思いの外、ヴァラエティに富んだ音楽で構成され、間違いなく、黎明期のオペラよりも多彩な表情を見せるから、おもしろい。そして、ミャウミャウと猫が合いの手を入れたり(track.9)、ワンっ、カッコー、動物たちがポリフォニーを編んだり(track.18)と、オペラではあり得ないふざけっぷり!このあたり、コンメディア・アルモニカの真骨頂。一方で、実に美しいマドリガーレもあって、ルネサンスの最後の輝きも見せてくれる。最終的に、コンメディア・アルモニカは、オペラに駆逐されてしまうわけだけれど、声のみで芝居を繰り広げて生まれるダイレクトな表情と、縦横無尽の軽るさは、オペラでは絶対に生み出し得ないもの、『肥沃な木曜日の晩餐前夕べの小宴』を聴けば、コンメディア・アルモニカが途絶えてしまったことが、凄く、残念に思えて来る。ドタバタなところもあるけれど、声こそが生むフレッシュさは、格別な魅力がある。
という、マドルガル・コメディを、アレッサンドリーニ+コンチェルト・イタリアーノを聴くのだけれど... 今となっては、バロックのオペラやコンチェルトで大活躍の彼らだけれど、彼らをブレイクに導いたのはモンテヴェルディのマドリガーレ。となれば、マドリガーレもまたすばらしい(で、ここで聴く、マドリガル・コメディは、そのブレイクを果たした頃の録音... )。イタリア人歌手たちによる本物のイタリア語歌唱の、小気味良さと来たら... やっぱり、餅は餅屋... で、その小気味良さからは、何とも言えない芳しさも広がり、マドリガーレの古雅なやわらかさもしっかりと活かし、魅了される。で、そういう確かな歌唱があってこそ映えるギミック!各種動物になったり、おじいさんになったり、おばあさんになったり(track.8)、キャラクタリスティックな部分では、徹底して表現し、笑かしてくれる。何より、丁々発止のアンサンブル!ひとりひとりの存在を活かしつつ、巧みにひとつまとめ上げるアレッサンドリーニの手腕は確かなもの... 『狩』(track.1-5)の描写性などは、水際立っている!だから、改めてコメディ・マドリガルのおもしろさを再発見。マドリガーレとはまた一味違う瑞々しさを放ち、オペラには無いフレッシュさで彩る!そんな音楽を聴いて、しばし、現実から離れる。

BANCHIERI ・ IL FESTINO DEL GIOVEDÌ GRASSO ・ CONCERTO ITALIANO

ストリッジョ : 『狩』
バンキエーリ : 『肥沃な木曜日の晩餐前夕べの小宴』 Op.18
ストリッジョ : 『洗濯女たちの井戸端会議』

リナルド・アレッサンドリーニ/コンチェルト・イタリアーノ

Opus 111/OPS 30137