音のタイル張り舗道。

クラシックという銀河を漂う... 

ル・プランス、ミサ、汚れは御身のうちにあらず。

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フランス・バロックというと、とにもかくにもヴェルサイユ!国王を頂点に、音楽官僚たちが織り成した宮廷音楽がそのイメージを形作っている。で、実際、オペラなど、宮廷の作曲家に独占上演権が与えられ、見事な一極集中!が、国中に教会があって、それぞれにオルガニストがいて、聖歌隊があって、ヴェルサイユとはまた違う音楽を歌い、奏でてもいた史実。ヴェルサイユがあまりにも燦然と輝くものだから、なかなか見えて来ない地方の状況なのだけれど... かのラモーは、リヨンやディジョンで活躍した後にパリへとやって来たわけだし、レクイエムの名作(後に、国王の葬儀でも歌われた... )を書いたジルは、トゥールーズの大聖堂の楽長だった。必ずしも、パリやヴェルサイユばかりがフランス・バロックではなかった。というより、地方の充実に支えられてこそのヴェルサイユであり、パリだったようにも思う。そんなフランス・バロックの地方をちょっと覗いてみる。
ということで、17世紀、フランス、ノルマンディー地方リジューの大聖堂の楽長を務めていた、ル・プランスのミサ... エルヴェ・ニケ率いる、ル・コンセール・スピリチュエルの歌と演奏で、ミサ「汚れは御身のうちにあらず」(GLOSSA/GCD 921627)を聴く。

ルイ・ル・プランス(ca.1637-93)。聴いたことのない名前... どういう作曲家なのだろう?と、いろいろ調べるも、要領を得ず。それもそのはず、残されている作品は、ここで聴く、ミサ「汚れは御身のうちにあらず」のみなのだとか... 太陽王の時代(1643-1715)、ヴェルサイユや、その周辺で仕事をしていなければ、作品は残り難かったのだろう。ちなみに、ル・プランスのミサ「汚れは御身のうちにあらず」は、1663年にパリで出版されたことにより、今、こうして聴くことができるとのこと... ヴェルサイユが栄華を極め、フランス・バロックは大きく花開くも、ヴェルサイユ以外が見えなくなってしまうというジレンマ。ミサ「汚れは御身のうちにあらず」の、ヴェルサイユとはまた一風異なったトーンに包まれる音楽に触れると、ヴェルサイユへの一極集中が、ちょっと憎々しく感じられる。いや、ポスト・ヴェルサイユ世代(太陽王亡き後、フランスの音楽は自由化へと向かい、音楽の中心は、ヴェルサイユからパリへと移る... )とも言える、カンプラ(1660-1744)、ラモー(1683-1764)が、地方出身であったことは興味深いことで、ヴェルサイユへの一極集中の一方、地方では、次世代を育む豊かな土壌がしっかりあったわけだ。で、そんな豊かな土壌を垣間見せてくれるのが、ル・プランスのミサ「汚れは御身のうちにあらず」。ノルマンディー地方の街、リジューの大聖堂の楽長を務めたル・プランスの音楽には、フランス・バロックの先端を行っていたヴェルサイユとは違うローカル性、中央にはない純朴さが感じられ... そんなル・プランスのローカル性に触れると、かえって、ヴェルサイユが強く打ち出していたフランス性が、作り物っぽくも感じられたり... という、地方と中央のギャップのようなものを、何気なく織り込んで来る、ニケ+ル・コンセール・スピリチュエル。ル・プランスによるミサの通常文(文字通り、いつものミサで変わりなく歌われる部分... )に、ル・プランスの同世代、ヴェルサイユの権化、リュリ(1632-87)、イタリアで音楽を学んだシャルパンティエ(1643-1704)による固有文(そのミサの目的によって変わる部分... )を挿み、より総合的に太陽王の時代のミサを再現するのが、なかなか興味深い。
で、その始まり、入祭唱として歌われるのが、シャルパンティエの「喜べ、キリスト教徒よ」。シャルパンティエのイタリア仕込みの明快な音楽が、かえってフランスらしい芳しさを膨らませ、のっけから魅了される!のも束の間、続く、ル・プランスの音楽には、驚かされることに... そのキリエ(track.2)は、まるで時が止まってしまったかのようにルネサンスシャルパンティエの後だと、また余計に際立って... ミサ「汚れは御身のうちにあらず」には、バロックが生み出した伴奏という概念は未だ無く、6声部で書かれており、ニケは、それを女声による3声と器楽によって構成する。いや、バロック期、教会風を意味したポリフォニーが、教会"風"なんてレベルで無く、ガチで息衝き、重々しい(というのも、イタリアの華麗なミサとは違って、フランスにおけるミサは、ルネサンスポリフォニーが堅守されなくてはならないという不文律があったから... フランスの宗教政策、ガリカニスムによるもの... )。一方で、女声のみで歌うことにより、色彩感や、やわらかさも生まれ、まったく以って独特。いや、太陽王の時代の、いともローカルなるオールド・ファッションは、かなりのインパクトを放つ。声と楽器がイーヴンに展開されて生まれる一体感は、伴奏という概念を生み出したバロックの、整理された響きには無いプリミティヴさを孕んで、何か凄い。というより、この凄さは、ローカルとか、オールドとか、完全に関係無くなった今だからこそ、解き放たれるものかもしれない。対するシャルパンティエは、イタリアの最新のスタイルの上に立ち、教会風の作法にも則って、実に洗練された音楽を聴かせる。最後に歌われるマニフィカト(track.12)の、軽やかに対位法を織り成して生む花やぎの妙、さすが... そして、ヴェルサイユのための音楽、リュリによる「おお、いと甘き主よ」(track.7)の、突き抜けた流麗さ!太陽王の宮廷というと、慇懃無礼なイメージがあるものの、リュリの音楽は、何ともエアリーで、麗しい... それは、フランスらしいメローさにも彩られ、聴く者を多幸感で包む。で、おもしろいのは、ドビュッシーへと通じるフランス音楽のDNAを見出せるところ... いや、それぞれに、それぞれの矜持を聴かせて、極まっている!
という、ル・プランス、シャルパンティエ、リュリを聴かせてくれたニケ+ル・コンセール・スピリチュエル。同じ、フランス・バロックでも、それぞれに個性を放っていて、一筋縄では行かないところを、卒なくまとめるニケの手腕。実は、かなり凄いことのように思う(一方で、当時のフランスのミサとは、そういうものだったわけだけれど... )。で、それを、女声のみでやり切るという... 混声ならば、ドシリと生まれる安定性を、あえて絶って、女声のみの、ちょっと危うげなバランスのままに走り切るスリリングさは、間違いなく、このアルバムの魅力となっている。それでいて、女声のみだからこそ、作曲家たちの個性が際立つところもあり... シャルパンティエの花やかさ、リュリの麗しさ、そして、ル・プランスの何とも言えない熱っぽさ、重々しさ... それらを、見事に歌い上げる、ル・コンセール・スピリチュエルの女声コーラス!高音が生む色彩感と、そこから発せられる鮮烈さは、ちょっとただならなくて... 彼女たちの歌声には、大地の深いところとつながるマジカルささえ想起させ、聴き手をグイっと引き込む。それが、思いの外、力強くて、恐くすらある。そんな歌声に応えるように、器楽部隊も、ジワジワとエモーショナルな演奏を繰り広げ、聴き入ってしまう。そうして響き出す音楽は、ひとりの男性が太陽だった時代の対極を成すようで、豪奢に飾り立てられたフランス・バロックヴェルサイユの時代へのアンチ・テーゼにも思えて来る。いや、フランス・バロックの地方も、なかなかにおもしろかったのだなと...

Le Concert Spirituel - Hervé Niquet Missa Macula non est in te Le Prince

シャルパンティエ : 喜べ、キリスト教徒よ H.306
ル・プランス : キリエ ミサ 「汚れは御身のうちにあらず」
グローリア ミサ 「汚れは御身のうちにあらず」
シャルパンティエ : 国王の健康回復のための感謝祈祷 H.341
ル・プランス : クレド ミサ 「汚れは御身のうちにあらず」
シャルパンティエ : 司教叙階式のための序曲 H.536
リュリ : おお、いと甘き主よ
ル・プランス : サンクトゥス ミサ 「汚れは御身のうちにあらず」
シャルパンティエ : おお、価値ある驚くべき宴 H.245
ル・プランス : アニュス・デイ ミサ 「汚れは御身のうちにあらず」
シャルパンティエ : 主よ、王を健やかにあらせてください
シャルパンティエ : マニフィカト

エルヴェ・ニケル・コンセール・スピリチュエル

GLOSSA/GCD 921627